イベリコ豚

今年の1月1日付けで職場が異動になった。仕事納めを翌日に控えた12月27日に、共に仕事をしてきた前の職場の同僚ら数名が忘年会兼送別会を開いてくれた。長いこと一緒に仕事をしてきた故なのだろうか、私の嗜好というものを良く心得ている。酒によって陽気に騒ぐのは好きだが、そもそも酒は強くない。一杯のかけそばならぬコップ一杯のビールで十分陽気になれる。従って職場の近くの飲み放題の居酒屋のようなところをその場所として選ぶことは間違ってもないのである。1年前に私が昇格したときにも同じような仲間が集まってお祝いの会を開いてくれた。その時は神楽坂の隠れ家的な和洋折衷の料理屋の一部屋を予約してくれた。車が入れない細い路地の奥まったところにある民家と間違うような木造の、情緒あふれる建物の二階の和室で実に楽しいひとときを過ごしたことが思い出される。今回もまたそれに勝るとも劣らない素敵な場所を見付けてきてくれたのは、私には過分の幸せと言うものである。
そこは飯倉片町の交差点近く、「キャンティ」というイタリアンの店である。1960年創業というから、私の年齢よりも歴史は長い。その昔小学生の頃、父親の仕事の関係でヨーロッパに住んでいたのでいろいろと各地を旅行した。フィレンツェで食べたピザのことは今でも思い出す。これもフィレンツェだったかベニスだったか、前菜にパスタを食べた後メインにローストビーフを取ったのだが、ローストビーフは塩、黒胡椒とオリーブオイルを自分の好みで振りかけ食べるのがイタリア式と聞いた。以来、今でも自宅でローストビーフを焼いたときには、1/3はグレービーソース、1/3は和風でわさび醤油、そして1/3はイタリア式で食べるのが我が家の慣例となっている。従って本式のイタリアンにもそれなりに昔から触れてはいたのだが、帰国後は、洋食といえばフレンチ、レストランにいくといえば帝国ホテル、みたいな感覚がまだあって、国内で本式のイタリアンをごく普通に食べるようになったのは、バブル期の少し前ぐらいから以降のことではなかろうか。そのだいぶ前から本格的なイタリアンを提供して店があったことは、不勉強で知らなかった。
同僚の一人、ゴルフ好きのむらのじ君のゴルフ仲間がキャンティのオーナーをされており、その縁で今回年の瀬も押し迫ったこの時期に一部屋をご提供下さったのだ。もう前菜からして極上の逸品であったが、特に印象深いのがスモークしたチーズ。生のチーズはどちらかというと苦手な方なのだが、このチーズはスモークした香りと不思議ともちもちとした食感を持ち、未だかつて味わったことのない驚きが口の中にひろがる絶品であった。パスタはキャンティ名物のバジリコのスパゲティ、とてもシンプルだがバジルの香りが実においしい。メインのスペアリブまで、大満足の食事に会話もはずんだことは言うまでもない。食後に花束と寄書きの色紙を贈ってくれた。色紙のデザインはむらのじ君の奥様のA子画伯である。恥ずかしながら感動して涙が出てきてしまったのは、私ももうトシということだろうか。本当に心暖まる会で、このような素晴らしい同僚らと仕事をしてきた幸せを感じた瞬間であった。
そろそろお開きか、という頃、オーナー氏が店の二階のバーに誘ってくれた。これがまた落ち着いたいい店で、結局この日は話がはずみ、他の客が全て帰っても嫌な顔ひとつせずに深夜二時すぎまで店を開いていてくれたのである。さらに「たまたま知合いからイベリコ豚をもらったので」といって、目の前でイベリコ豚のハムをスライスし、ごく軽く粗引きの胡椒とオリーブオイルをふったものを振る舞って下さったのだが、これがまた絶品で、気がつくと皿がからになっている。そうするとまたスライスしてくださる。一体何皿食べただろうか、もう何から何まで、キャンティのホスピタリティあふれるサービスも食事もお店のたたずまいも、同僚からの心暖まるプレゼントも、楽しい会話も、ここまで感動した会を企画し準備し集まってくれた同僚らに、本当に感謝している。年明けから職場は変わることになるが、これからもいろいろなところで面白いことを一緒にやりたいと、思い出しながらこの文を書きつつ、しみじみ思うのである。